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私がメキシコにきた理由 1

今回はちょっと個人的なお話を。

偶然、私がメキシコに来た経緯をまだ生々しく語れる時代に書いたものを発見して、懐かしくなったので、ここにも張り付けておこうと思います。(もしかすると後で削除するかもしれないけど)

ちょうどカンクンに移住した同じ月(思い出しもしなかった)でした。

もしスペシャルサンクスの欄があるなら、1年間メキシコと中米を放浪した後、日本に帰りメキシコへの想いで悶々しながらも現れた17歳くらい年上の当時の彼氏(おっさん彼氏独身でしたよ)が、私がメキシコに就職を決めたとき新品のパソコンを買って持たせてくれました。

そして「メキシコ生活のことブログ書いたら?」この一言がきっかけで、手探りで細々とやってきて、途中サイトを移ったり、休止したりしたけど、今でも10年以上前に自分が書いたものを読むことができて(ログインの仕方も覚えてない)、もう消息も知らないけど当時の彼氏に感謝したいと思います。

 

私がメキシコに来た理由。(過去記事より)

2月22日。

一年前の今日、わたしはここメキシコの東の果て、カンクンに降り立ちました。

スーツケース1個とバックパックをバゲージクレームから引きずりおろし、カンクンの空港から外へ出た。

6年前に嗅いだ初めてのメキシコの匂いがあるか確かめるように、思いっきり息を吸い込む。

うん。確かにメキシコの匂いだ。

懐かしい匂いとともに、私のこれからの心配など不思議と微塵もなく、ただ居るべきところに帰ってきたような不思議な感覚だった。

6年前、私は、大学卒業を間近にしても就職は決まってませんでした。芸術学部という環境もあるのか、社会系の学生に比べると、私も含めまわりの友達も就職に対してそんなに焦る様子は感じられなかった。

なんとなく就職活動をしてみたもののどこにも決まらず、

いつも心のどこかで「海外へ」というのがあった。

そこで思いついたのが、JICAの日系社会青年ボランティア。青年協力隊のほうが知名度がありますね。

私は青年海外協力隊は受けず、日系社会青年ボランティアのみ受験しました。なぜなら、派遣されるなら、絶対中南米がいい!と思っていたから。

日系社会青年ボランティアの派遣国は中南米のみだったからです。

 

青年海外協力隊には、公民館などにポスターが貼ってあって、中学生のころから漠然と興味はあった。(同じく船で世界1周する「ピースボード」とかにもいつも釘付けw)

色々、JICAの説明会など行ったり、調べてみると、「こんなに私にぴったりなのは他にない!」
という思いで、真剣に合格するために、専門(私は資格もなにもなかったので、資格がなくても枠が少しだけある日本語教師を希望した)、英語、などの勉強をした。

今の募集は分からないが、そのころは日系社会青年ボランティアの募集は年に1回のみ。

正直、日本語教師って日本語喋れるから簡単だろうと思っても、実際、日本語教師の試験なんて、参考書を開くと全く知らない、分からないことだらけで、短期間でやろうとしても全く追いつくものではなかったが、合格したい気持ちでいっぱいだった。

後で知ったが、やはり考えることは皆同じようで、日本語教師はかなりの倍率だった。

試験当日、問題は解けた気は全くしなかったけど、なぜが後日、合格通知が届いた。

飛び上がるほど嬉しかった。

そもそも、私がこれに行きたかったのは、正直「ボランティア精神」からではない。

ボランティアといえども、行くからには「してあげる」のではなく、きっと私が受入れ先から色んなことを吸収することができる。自分が学ばせられる。だから、最初から自分は「ボランティア」ではない。と考えていた。

そして、更には国を通しているので「保障」が大きく、安全かつ、2年の任期で終了すると約200万の貯金(私が受けた当時)がもらえ、渡航費、現地でのわずかなお給料、もし戦争が現地で起きたらなすばやく帰国できる。言語も事前研修で学べる。

そんなこんなで、不謹慎だが、かなり魅力だった。

(わたしの記憶なので間違ってるとこもあるかもしれません。鵜呑みにしないでくださいね)

実際に、たくさんの協力隊のかたがいると思いますが、どうか上記を読んで気を悪くなさらないでください。

2次試験まで進んだ私は、提出しなきゃいけない健康診断書を持って、福岡から横浜まで試験を受けに行きました。

日本語の面接。一般面接。健康診断。

見た限り、当時の私が最年少のようだった。

日本語の面接。

はい。ちっともわかりません。

 

一般面接。

はい。緊張しすぎて全然言いたいこと言えませんでした。

ただ、面接官は、私が大学で陶芸やってたのでそこばかり突いてきて、

『なんでアマゾンなどの下流の土で陶芸を希望しないのか。中学生時代から協力隊に興味があって、日本語教師になりたいんなら、大学でも陶芸じゃなくて他に専攻があっただろう。』

と、言ってくる。

若かった私は、「人は色んなものに興味がいいんじゃないか。道はひとつなのか?!中学生のころから興味があったって、ボランティアのために大学にいったわけではない。世界に人材を送る機関で広い視野を持たなければいけないのに、年寄りは頭の固い連中ばっかりなのか?!」

・・・と、思ったが、もちろん口には出さなかった。

それに、私は中南米へ行きたかったが、陶芸でこのエリアでの募集はなかったから。

いや、その前に大学で陶芸を専攻はしたけど、陶芸を教えるほど私は陶芸にはまってなかった。

(そのくせ、のちにバックパッカーから日本に帰国するときに、石垣島に住もうと思いつき、偶然にも帰国した成田で手に取った求人誌に石垣島の窯元の募集があり、運命だ!大学で陶芸してたし!と就職試験を受ける。この矛盾!笑。そして落ちこぼれな私を採用してくれた窯元の就職、「やっぱり石垣島に住んでもメキシコ行きたくなるって自分で知ってる。自分に嘘はつけん!」と就職を断る。どうでもいいが、石垣島の就職面接のあと、ついでに石垣島から乗客のいない大型貨客船の乗って台湾に行ってみた(密入国ではない)。到着した台南から台北へ台湾鉄道で駆け抜け、台北から飛行機で福岡に帰ったら福岡空港で麻薬探知犬が私に反応して麻薬所持者と疑われ取り調べ室に送られる。(もちろん所持してない。台湾のちまきは持ってた。ちまきの葉っぱに反応したのかな?)実は小学2年生の頃から麻薬探知犬の訓練士になりたかったので(これは高校生のとき大学進学の道を選んだので訓練士にはならなかった)、取り調べをされる中「私の子供の頃の夢は麻薬探知犬の訓練士でした」というと、活躍中の麻薬探知犬のポストカードや「麻薬はダメ!絶対!」みたいなグッズをもらって解放されました。ただの就職面接の帰りのできごと。人生いろいろ)

 

今、思えば、JICAの面接官にそこでちゃんとした理由を述べることができてたならば、結果は変わってたかも。とも思う。

淡い期待を抱きつつも、結果を待ったが

不合格。

諦めきれず、1年待って次の年にも受けた。

でも、また面接で落ちた。

そこで私は、ハッとした。

「あぁ、私はここにはお呼びでない。きっと下心がバレてたのかな。そして、きっと私はボランティアで行って真面目にレポートとか書くタイプの人間ではなく、ひとりで行って、放浪するタイプなのだ。」

と、なんともポジティブシンキングな私は、方向転換をし「旅」に出ることにした。

そのころは大学も卒業し、まわりもちょこちょこ就職が決まっていた。

私立の大学に4年、しかも就職にあんまり有利じゃない学部の上に、学費も高い学校に通わせてくれた親に申し訳ないと思いつつも、就職もせず旅に出るために費用調達の為、極秘でバイトに明け暮れていた。

バイトかけもち3つ。

朝5時には起き電車に乗り、夜は帰宅11時。バイトからバイトへの移動に100円でバスに乗れるがそれも乗らず、ケチって歩いて3つのバイト先を行き来した。1日の食費は100円が目標。

親には一切このことは秘密。

まっとうな道を歩いて欲しい親(当たり前)にこんな私の企みは絶対に言えなかった。

超厳しい母親が許すわけもなかったし、阻止されると思ったから。

親には、私は大学を卒業しても就職せず、朝から晩まで毎日毎日遊びほうけてるドラ娘に映った。

そりゃそう。

バイトは1つって言ってたから、数ヶ月ものあいだ休み無しで、朝早くから夜遅くまでやるバイトがどこにあるのか!!と言っては、わたしを引っ叩いた。

でも、言わない。

そこがまた、Mな私は、「自分がんばってる!」と錯覚してたのかな?笑

 

 

つづく・・・

 

あとがき

文中で「ただ居るべきところに帰ってきたような不思議な感覚だった。」と書いていた。不思議なことに、私はそれからそれから数年後、メキシコに住めるならどこでもいい!とカンクンに全く執着も持ってなかったのが、偶然カンクンで就職が決まり、それから10年以上カンクンに住み続け、家族を持った。

感覚だけで生きてきた私だけど、あながち間違いではなかったのかも。笑

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